「次の駅までトイレに行けなかったら、どうしよう」
電車に乗るたびに、そんな不安が頭をよぎる。
会議の前には「もし途中で席を立てなかったら」と考えてしまい、緊張が腹痛を呼ぶ。
旅行の計画を立てようとするたびに、お腹のことが心配で気が乗らない。
この記事は、そんな日常を何十年も抱えてきた50代の女性が、漢方の煎じ薬と体質改善をとおして、約1年で漢方薬を卒業するまでの記録です。
「まさに自分のことだ」と思われた方に、ぜひ最後まで読んでいただきたいと思います。
子どもの頃から、お腹だけが弱かった
相談に来られたのは、50代の女性Aさんです。
お腹の悩みは、子どもの頃からのつきあいでした。
ラーメンや焼肉のあとに決まって下してしまい、大人になってからは飲酒のあとにも症状が出るようになった。
ずっと「体質だから仕方ない」と思って過ごしてきたといいます。
ところが年齢を重ねるうちに、症状が変わってきました。
以前は食事の内容が原因だったのに、今はちょっとしたきっかけ、例えば、少し緊張する場面や、外出の予定があるだけでも、お腹が反応するようになったのです。
朝食のあと、夕食のあと、週に2〜3回は腹痛と下痢が起きる。
渋り腹といって、一度出てもすっきりせず、またすぐに腹痛がやってくる。
食べたものがほとんどそのままの状態で出てしまうこともありました。
おやつは毎日の楽しみで、チーズも朝から食べていた。
それがお腹に影響しているとは、このときまだ気づいていませんでした。
「電車が怖い」|予期不安という名の苦しさ
Aさんがいちばん辛いと話してくださったのは、痛みそのものよりも、「痛くなったらどうしよう」という不安の重さでした。
電車に乗るとき、「次の駅までもつだろうか」と体のサインを探してしまう。
会議では「途中でトイレに立てない時間帯が怖い」と、座席の位置まで気になる。
旅行に誘われても「宿のトイレ事情が心配で」と断ることが続いていた。
興味深いのは、実際には行ってみると痛みが起きないことも多い、とAさん自身がおっしゃっていた点です。
これは「脳腸相関」という観点から理解できます。
腸と脳は迷走神経などを通じて密接につながっており、不安やストレスが腸の動きを直接乱すことが知られています。
「痛くなるかもしれない」という予期不安が腸を緊張させ、本来なら起きなかった症状を引き起こしてしまう。
逆に言えば、腸の状態が落ち着けば、不安そのものも小さくなっていく可能性があります。
Aさんはこのほかにも、頻尿・坐骨神経痛・ホットフラッシュ・難聴と、いくつもの不調を数年単位で抱えていらっしゃいました。
体全体が、何かにじわじわと消耗しているような状態でした。
漢方的な見立て|脾虚・気滞が重なっていた
糸練功(しれんこう)という気功ベースの体質分析法を用いて、Aさんの体の状態を丁寧に読み解いていきました。
まず気になったのは「脾虚(ひきょ)」のサインでした。
漢方でいう「脾」は、消化吸収の機能全体を担うシステムです。
脾が弱いと、食べたものをうまく変換できずに未消化のまま排出してしまうことがあります。
Aさんの「食べたものがそのまま出てくる」という症状は、まさにこれにあたります。
渋り腹(一度出てもまたすぐ腹痛が来る)も、サインのひとつと捉えられます。
また、油の処理が不得意な方に特有の反応も見つけることができました。
ラーメンや焼肉、チーズ、チョコレートなど脂質の多い食べ物で症状が悪化しやすい体質は、この反応が関係していることが多いのです。
そしてもうひとつが「気滞(きたい)」。
ストレスや緊張によって気の流れが滞ると、腸の動きが乱れやすくなります。
Aさんの場合、不安や緊張がきっかけで症状が出るという点で、気滞の関与が強く見られました。
脾虚・油の処理・気滞。
この三つが重なっているとき、過敏性腸症候群の症状はとくに複雑になりやすいと感じています。
治療の中心は「整える粉薬」と「油の掃除の煎じ薬」
Aさんの治療は、粉薬と煎じ薬の組み合わせからスタートしました。
粉薬は、脾を立て直し、気の流れを整えることを中心に組み立てています。
脾虚と気滞の両方にアプローチする処方です。
もうひとつの柱が、「油の掃除」を目的とした煎じ薬です。
腸内に余分な脂質が滞っている状態では、いくら脾を整えようとしても、根本からの改善にはなかなか至りません。
この煎じ薬は、腸内の停滞した脂質の処理をサポートし、腸内環境そのものを整えていくことを意図しています。
一般的なドラッグストアなどでは標準化されたエキス顆粒剤が主流ですが、当薬局では煎じ薬(生薬を煮出して服用するもの)を中心に処方しています。
煎じ薬は体質や症状に合わせて細かく調整できるため、複数の問題が重なった方にはとくに力を発揮しやすいと考えています。
チーズとチョコをやめた理由
治療と並行して、生活面でも一つお願いをしました。
朝に食べていたチーズと、毎日持ち歩いていたチョコレートをやめることです。
チーズは発酵食品であり、また脂質も多い食品です。
油の処理が苦手なAさんの体質には、日常的に摂り続けることで腸内環境の乱れを継続させてしまう可能性がありました。
チョコレートも、脂質と砂糖が腸に余分な負荷をかけやすいものです。
「毎日のおやつ」と「朝のチーズ」は、Aさんにとっての小さな楽しみでした。
それをやめるのは簡単ではなかったと思います。
ただ、漢方薬の働きを最大限に活かすためには、食事から腸への負担を減らしていくことも大切な治療の一部です。
Aさんはそこをきちんと理解してくださり、取り組んでくれました。
1ヶ月後。「先生、1回しか出なかったんです!」
最初の1ヶ月が経った頃、Aさんは笑顔で報告してくれました。
「この1ヶ月、症状が出たのはたった1回だけでした。すごいですね!」
以前は週2〜3回あった症状が、ひと月でたった1回。
数字以上に、Aさんの表情が変わっていました。
「電車が怖い」という感覚が、少しだけ遠ざかり始めていたのです。
この時点でAさんは、「このままお腹をしっかり治したい」とおっしゃいました。
最初は「少しでも楽になれば」という気持ちだったのが、「ちゃんと治る」という手応えに変わった瞬間でした。
2ヶ月後。においが消えた
2ヶ月が経つ頃、Aさんから少し照れながら報告がありました。
「おならのにおいが、ほとんどしなくなったんです」
これは、実はとても重要なサインです。
おならの悪臭は、腸内で腐敗や異常発酵が起きているサインのひとつです。
それが改善されてきたということは、腸内環境が内側から変わり始めているということ。
体の表面には見えにくい変化ですが、腸の中では確実に何かが動き出していました。
「油の掃除」の煎じ薬が、腸内の停滞をほぐしながら環境を整えていった結果といえると思っています。
半年後。「もう困ることが少なくなりました」
その後は、波がありながらも全体として上向きになっていきました。
体の回復というのは、一直線には進みません。
少し良くなったと思えば、疲れたときや季節の変わり目にまた揺り戻すこともある。
Aさんの経過もそうでした。
それでも、その「揺り戻し」の幅がだんだんと小さくなっていきました。
半年後の来局では、「日常生活で困ることが少なくなってきました」という言葉が出ました。
電車に乗るのが怖い、会議が不安、そういった感覚が、生活の背景に退いていったのです。
8ヶ月後。粉薬を減らし、そして卒業へ
8ヶ月目に入ったところで、粉薬の服用を1日1回に減らしました。
これは「薬に頼らなくてよくなってきた」というサインです。
体がしっかりと自分で整えられる力を取り戻してきた状態に入ったということ。
漢方の治療における「卒業」とは、薬を一生飲み続けることではなく、薬が必要でなくなることを目指すものです。
その後も改善は続き、最終的にAさんは漢方薬を卒業されました。
現在は、「油の掃除」をするお茶だけを続けていらっしゃいます。
腸内環境を整えるためのお茶として、体に合っているとのことで、ご自分のペースで継続しています。
実は、私自身もこのお茶は毎日飲んでいます。
体の調子がとても良いと感じており、自信を持っておすすめできるものです。
同じ悩みを持つ方へ
過敏性腸症候群の下痢型は、「精神的なもの」「体質だから仕方ない」と言われ続けてきた方が多い症状です。
でも、体質は変えられます。Aさんがそれを教えてくれました。
大切なのは、症状だけでなく「なぜその人がそうなっているか」を丁寧に読み解くことです。
同じ「下痢」でも、脾虚が中心の人もいれば、血熱が主体の人もいる。
気滞が絡んでいる人もいる。
その人の体の状態に合った処方でなければ、なかなか変化は出てきません。
当薬局では、糸練功という体質分析の技術を用いて、一人ひとりの状態をていねいに読み解いたうえで処方を組み立てています。
エキス顆粒ではなく、煎じ薬を中心にしているのも、体質に合わせた細かい調整ができるからです。
Aさんのように、「電車に乗れなかった」自分が、旅行を楽しめるようになる。
そこまで変わっていける可能性は、きっとあります。
どこに行っても「体質だから」と言われてきた方でも、どうぞ遠慮なくご相談ください。
